2009/07/28

* ・・・鹿島のおばば。 -2- 民宿開業に至るまで・・・

  
  
    在りし日の・・ 狩野きく能さん・・  著書より。



    いくら見ていても飽きないの・・・ この笑顔・・・

    本当にいい写真よね。



    ニッポンのおかあさん・・・ そんな気がしません?

    ものすごく懐かしいのに・・・ すぐそこに今もいる・・・ そんな気がしません??




    きく能
さんが生まれた明治23年は・・・  遠い昔・・・


    明治が45年だから・・・   22年
    大正が・・・           15年 (14年とちょっとだけ・・)
    昭和が・・・           64年 (64年は8日間だけ・・)
    平成が・・・           21年

    だから・・・           122年  前のことだったのね。
            





    ---------------------  以下・・ 本文より・・・

     
    鹿島といえば、大町市 鹿島川上流の北辺に位置する標高980メートルの高地。


    往時平家の落ち武者が逃げのびてアルプス山麓にたどりつき、鹿島川をさかのぼって、
    鹿島槍ヶ岳北東面・大遠見山・五竜岳・天狗尾根に囲まれた広いU字谷を探し出し、
    ここを屈強の隠れ家として住みついたと伝えられている隠れ里 。
    地方の訛りに転じて 「カクネ里」 と呼ばれるようになった。

    しかし、時代の推移につれて川を下り、現在の場所に居を移し、今日に至ったのが、
    きく能さんの生まれ在所となった
鹿島集落だ。



    明治から大正にかけての頃は、近代登山の夜明け時代。


    参謀本部陸地測量部の五万分の一の地図が世に出たのもこの頃。


    明治45年3月3日、神田一ツ橋帝国教育会で催された、
    ウェストンの日本アルプス講演会などは、これに一層の拍車をかけ、
    山を志向する若者の数を増やしつつあった。

    それは
ウェストンをして驚かせるほど、山々への憧れが国内にざわめき渡った時代でもあった。

    後立山をねらう山男たちが、
    狩野さん宅の前の道を重いリュックを背負って行く姿の急に目立ちはじめたのも、この頃からであった。



    「おめえ、どこへ行くだ!」
    「鹿島槍へ登るんだが、ちょっと休ませてくれ。」


    治喜衛さんと二人で野良で働くきく能さんにとっては農作業も大事だったが、
    重そうなリュックを背負った登山者からこう呼びかけられると鍬を放り出して快く応じ、
    早速イロリに招じて渋茶の接待。

    
    登山者は好意をよろこんで一時をくつろぐ。
    大町からの歩きづめの疲れが消しとんで、再び荷物を背負って北へ去る。


    これを見送りながらきく能さんは、

    「鹿島槍かー あぶねえ山ずらいなあ。 無事に帰れりゃいいがのう。」 と 心に思う。



    こんな日が何年も続いて往き帰りの登山者が休息を求めて狩野さん宅を訪れるのが多くなった。
    きく能さんはこれを拒まず快く引き入れて接遇した。


    「ゆっくり休んでいかっし。」
    「きのうついた餅もここにある。 山では餅が一番の力だ。 遠慮しねえでもっていくがいい!」


    「いいか忘れるでねえぞ。 山は里道と違うだでなあ。」
    「あぶねえとこがいっぱいある。 気をつけていくだよう。 無事で帰ってこいよう。」





    ---------------------

    
    
本から抜粋しながら書いているのに、胸が熱くなって涙が出てきます。

    なんて
あたたかいんでしょう。。。 やさしいんでしょう。。   きく能さん。。。

 



                                         -つづく-






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