2009/08/15
* ・・・鹿島のおばば。 -6- 登山者の無事を祈った一生・・・
「鹿島のおばば」
登山者の無事を祈った一生・・・
在りし日の・・ 狩野きく能さん・・ 著書より。
日本の空に重苦しい暗い影が忍び寄っていました。
あの太平洋戦争です。
その戦争の余波は
鹿島槍からも山々からも若き登山者の姿を奪って行ったのでした。
登山者がめっきり少なくなったその頃、、
戦時中のきく能さんの寂しさはいかばかりだったことでしょう。
--------------------------以下・・ 本文より抜粋 ---
「いつか来たあの子も戦地へ狩り出されたかもしれねえのう。」
「いつまで続く戦争かしらねえが、無事で帰ってまた顔を見せてもらわにゃあー」
きく能さんにとっては生涯を切り刻まれるような永い戦争だった。
昭和二十年八月、敗戦の報は谷深い山里へも伝わった。
きく能さん55歳の時のことだった。
そして、山は再び活気を取り戻し、
見直された登山は新しい局面を開き大衆化の傾向をたどることになって行く。
鹿島山荘への登山者も戦前をしのいで、きく能さんに幸をもたらした。
「おばば」になり切ったきく能さんの愛情はさらに溢れて、
登山者の接待に活躍の舞台を与えたのはいうまでもない。
地言葉丸出しの飾りっ気なさ、食膳も昔風のまま。
これが都会からの登山者にいっそうの歓びを与えた。
「行儀が悪いのう。 いや、山では箸なんか無用の長物だ。」
「好きなようにつまんで腹いっぱい食べるがいいだ。」
「いいか、気をつけてのう。 必ず帰ってくるだよ。 忘れ物はねえか。」
「今朝のお客はメシを二杯しか食べなかったが、大丈夫かのう。」
「よかった。 よかった。 雨には遭わなかったか。」
「さあ、腹がへってるずらい。 餅が焼けた!」
--------------------------ここまで ---
いつもいつも
若い登山者のひとりひとりを我が子のように気遣っているきく能さん。
朝早く一人ぽつねんと北方の山を望み
憑かれたように何やらを口走っているきく能さんの姿がよく見られたそうです。
ああ、また若い登山者の無事を祈っているんだなあーーー、、
夫の治喜衛さんはそんなきく能さんの姿をそっと見守っていたのだと、、、
こうなるともう商売で民宿を営む人なんか通り越して
あたたかなお母さんそのものですね。
きく能さんと治喜衛さん、、
お二人の気持ちを思うだけで胸があたたかくなってまた涙が出てしまいます。
-つづく-
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