2009/08/30
晩夏・・ 野菊の咲く日。。。
野菊が咲きはじめていました。
もうすっかり秋の装いの林の小径。
そういえば
晩夏と云える日がなかったようなこの夏。
心なしか陽射しが弱まり影が長くなって
ふと気づけば夏も終わりに近い・・・ 晩夏・・・
初夏の・・・ 響きのやわらかさ・・・
晩夏の・・・ 心もとない刹那の響き・・・
宝物のような・・・
美しい日本の季節を表わす言葉の数々・・・
冬が過ぎ春を迎える初々しい日々に・・・ 晩冬はなく・・・
春から夏に向かうキラキラ輝く日々に・・・ 晩春もない・・・
春が匂い・・・ 夏を誘う日々・・・ それは迎える季節なのね。
夏がやや翳を潜め寂しげな秋をすぐそこに感じたら・・・ 晩夏・・・
木々がゆるやかに色を閉じ秋の深まりを感じる頃・・・ 晩秋・・・
日本の季節は・・・ こんな風に・・・ やさしく過ぎて行くのね。
2009/08/28
2009/08/22
のうぜんかずらのある家
新盆、、、
今年は本家のおばちゃんの新盆
この家に嫁いでとても苦労したおばちゃんだったけれど
晩年のおばちゃんは幸せだった。
跡継ぎのMくんのお嫁さんがそれは素直なかわいい人で
おばちゃんとは実の親子のように仲が良くて傍で見ていてもほほえましかった。
三代前のおじいちゃんの時代にすっかり没落してしまった家。
往時を偲ばせるのは木戸の松の古木とそれに絡まるノウゼンカズラの巨木。
家も新しくなり土蔵もなくなり
私の小さかった頃の思い出は
今では高い石垣とこの巨木だけになってしまった。
この木も大きいけれど
このノウゼンカズラは木戸の木の子供、、 それでも40年近くは経っている。
木戸のノウゼンカズラは遥か空の彼方で松の緑に朱を翻していた。
何十年、、 いや、、 百年ははるかに越えている。
今ではどこにでも咲いているノウゼンカズラだけれど
昔の田舎では咲いているのを見たことがなかった。
幹の蔓は、今ではこの老木の松の幹とほぼ同じ太さになっている。
私は小さな頃からこのノウゼンカズラの神秘を秘めた朱に心を躍らせていた。
真夏の翳りかけた黄昏時、、 そんな夕暮れに見るこの花が今でも私は大好き。
2009/08/18
2009/08/15
* ・・・鹿島のおばば。 -6- 登山者の無事を祈った一生・・・
「鹿島のおばば」
登山者の無事を祈った一生・・・
在りし日の・・ 狩野きく能さん・・ 著書より。
日本の空に重苦しい暗い影が忍び寄っていました。
あの太平洋戦争です。
その戦争の余波は
鹿島槍からも山々からも若き登山者の姿を奪って行ったのでした。
登山者がめっきり少なくなったその頃、、
戦時中のきく能さんの寂しさはいかばかりだったことでしょう。
--------------------------以下・・ 本文より抜粋 ---
「いつか来たあの子も戦地へ狩り出されたかもしれねえのう。」
「いつまで続く戦争かしらねえが、無事で帰ってまた顔を見せてもらわにゃあー」
きく能さんにとっては生涯を切り刻まれるような永い戦争だった。
昭和二十年八月、敗戦の報は谷深い山里へも伝わった。
きく能さん55歳の時のことだった。
そして、山は再び活気を取り戻し、
見直された登山は新しい局面を開き大衆化の傾向をたどることになって行く。
鹿島山荘への登山者も戦前をしのいで、きく能さんに幸をもたらした。
「おばば」になり切ったきく能さんの愛情はさらに溢れて、
登山者の接待に活躍の舞台を与えたのはいうまでもない。
地言葉丸出しの飾りっ気なさ、食膳も昔風のまま。
これが都会からの登山者にいっそうの歓びを与えた。
「行儀が悪いのう。 いや、山では箸なんか無用の長物だ。」
「好きなようにつまんで腹いっぱい食べるがいいだ。」
「いいか、気をつけてのう。 必ず帰ってくるだよ。 忘れ物はねえか。」
「今朝のお客はメシを二杯しか食べなかったが、大丈夫かのう。」
「よかった。 よかった。 雨には遭わなかったか。」
「さあ、腹がへってるずらい。 餅が焼けた!」
--------------------------ここまで ---
いつもいつも
若い登山者のひとりひとりを我が子のように気遣っているきく能さん。
朝早く一人ぽつねんと北方の山を望み
憑かれたように何やらを口走っているきく能さんの姿がよく見られたそうです。
ああ、また若い登山者の無事を祈っているんだなあーーー、、
夫の治喜衛さんはそんなきく能さんの姿をそっと見守っていたのだと、、、
こうなるともう商売で民宿を営む人なんか通り越して
あたたかなお母さんそのものですね。
きく能さんと治喜衛さん、、
お二人の気持ちを思うだけで胸があたたかくなってまた涙が出てしまいます。
-つづく-
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2009/08/05
* ・・・鹿島のおばば。 -5´- ちょっと休憩 きれいな湧き水・・・
ここではじめて地表の温度にふれる湧き水。
私は時々お水を汲みにこの山の中に行くの。
一升瓶を20本くらい持って。。
この北アルプスからの冷たい湧き水に触れると、
気持ちがすーーーっとほぐれて命が蘇る気がするの。
ガラス瓶につく雫の冷たさがたまらなく好き。
だから、どうしても一升瓶じゃないとイヤなの。
プラスチック容器ではだめなの、、 ね。
山道を行き、鬱蒼とした森を抜けると空が大きく広がるの。
北アルプスの山々はすぐ目の前。。 と、、、
突然冷たい風が吹いてきて、頭上に黒い雲が、、 と、、、
お水を汲んでいる私に大きな雨粒が ぽつん ぽつん、、、
あっ・・ と思う間もなく、どしゃぶりに巻き込まれて、、、
車に入ったと同時に空が落っこちてきた^^; かと思った。
車ごと私を押しつぶすかのような勢いの物凄い雨は、、 破壊的、、、
さて、、 さちの運命やいかに、、、 ったって、、、
さちさん、、 ブログ、、 書いてンじゃん、、、 んんんっ /・・)?
きょうは時間が足りませ~~ん。
きく能おばばさんのやさしい笑顔でひととき癒やされてくださいね^^
在りし日の・・ 狩野きく能さん・・ 著書より。
-つづく-
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2009/08/03
* ・・・鹿島のおばば。 -5- 民宿 「鹿島山荘」 開業・・・
クリックしてみてください。 冷たい水しぶきが届くといいですね^^
7月最後の日、、
その日もやっぱり雨でした。
朝は気持ちのいい夏の陽射し、、
しばらく奥深くまで入っていなかったから、
森の大気を吸い込みたくなって出かけました。
ここまでは車で一時間弱、、
標高1300Mほど、、
目の前には黒々とした北アルプスの山々、、、
空気はひんやりと肌にやさしく、川の水は冷たくて手が切れそう。
このさわやかさ・・ を・・・
このまま・・・
都会に住む方々に届けてあげられたら・・・ そう思ったら涙が出てきました。
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在りし日の・・ 狩野きく能さん・・ 著書より。
「ようし。 オラとこも民宿ってのやってみるかー。」
そんな話になったのは、昭和二年、きく能さん37才の時のことでした。
--------------------------以下・・ 本文より抜粋 ---
かつて南極観測隊長をし、登山家であり、生態学者でもある、
京都大学名誉教授今西錦司氏が、まだ京大二年に在学中の昭和二年三月、
同僚三人と鹿島山麓へスキーに来て泊まったのが狩野さん宅であった。
白馬山麓細野(現八方)の民宿の話が今西氏の口から出て、
きく能さんはふとその気になった。
もちろん治喜衛さんは大賛成。
その年正式に人を泊める商売に踏み切った。
商売とはいっても山家育ちのきく能さんの気性からいって、
儲けが主体のアキナイでなかったことはもちろんだ。
依然として登山者が主体の奉仕に徹底する民宿だった。
そして家族的な雰囲気が常にただよっていたから、
登山者は気持ちをほぐして利用することができた。
翌三年、「鹿島山荘」 と名を改めて、一人前の民宿にデビューした。
--------------------------ここまで ---
「民宿」ってこんな風に、、
気持ちが高まって自然に生まれてきたものだったんですね。
きく能さん37才、、
登山者との心の交流も数を重ねてピークに達していた。
そして、いろいろなことがよく解る年齢に差しかかっていた。
きく能さんは、民宿を営むために生まれてきたような人だったんですね。
-つづく-
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2009/08/01
* ・・・鹿島のおばば。 -4- 後立山連峰・・・
在りし日の・・ 狩野きく能さん・・ 著書より。
「後立山連峰」、、、
越中(富山)の立山から見て、後にあるから付けられた名称。
こちらの長野県側から見たら、ちょっと屈辱的な印象だったらしく、
「針の木小屋」を開いた百瀬慎太郎さんは、
その名前を嫌って、「鹿島連峰」と言っていたとか、、、
この百瀬慎太郎さん・・・
この方がまた本当にすてきな方で、、、
あらあら、、 脱線しちゃいそう^^ このお話はまたいつか、、、
「後立山連峰」、、、
このシリーズの -1- でお話しましたので詳しくはそちらで、、、
この「後立山連峰」は、
北アルプスの穂高連峰とともに縦走コースとしては人気の的となっていて、
それだけに遭難発生率も高いコース。
松本清張・・・ 「遭難 (黒い画集)」
井上靖・・・・・ 「あしたくる人」
森村誠一・・・ 「日本アルプス殺人事件」 など、、、
鹿島槍ヶ岳を舞台にした小説もいくつか書かれているそうです。
----------------------- 以下・・ 本文のまま---
夏山はともかく、冬山ともなれば積雪量も多く、
雪屁(せっぴ)もいたるところに張り出して、
ベテランでさえしばしば不測の事故に巻き込まれるがこの山の恐るべき正体である。
きく能さんは、このような情況を多年の勘でいやというほど知っているだけに、
登山者の安否に気を使うことしきりであった。
自分では山へは登らないが、
帰りの登山者が休息のため立ち寄ってイロリを囲んで語る仲間に加わり、
いろいろの状況を聞きながら心の中へきざみつける。
そして後日の登山者への参考知識として受け継ぐ役割を果たしていた。
これが大きく役立って危機を脱して無事下山した登山者も数限りなくあった。
「おばばのおかげで命拾いをした。」
「あの話を聞いていなければ、オレの命はなかったかもしれぬ。 おばばは命の恩人だ。」
こんな礼手紙を一年に何本も受けとったものである。
誰いうとなく ”鹿島のおばば” という尊称が広まって、
その名は山男たちのあこがれの女傑とまで慕われるようになっていた。
-つづく-
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